オタクよ、団結せよ!

齢25にして、初めてビデオDVDを購入しました。
ブランクDVDは既に数百枚という単位で購入しているのに不思議な話です。
で、買ったのがこちら。

Otaku Unite [DVD] [Import]

Otaku Unite [DVD] [Import]

日本語紹介文をこちらから転載。

「OTAKU UNITE!」は歴史ドキュメンタリーであり、ファン・コミュニティーの特徴分析であり、社会現象の研究でもある。外国文化を愛しその外国文化を日常生活の1部にしている人々、アメリカの人口の特筆すべき割合を占めるその人々の描写でもある。そして何よりもまずこの映画自体がアニメファン・コミュニティーへの賛辞の表明だ。日本アニメファンとは、アメリカのポップ・カルチャーの歴史において最も個性的で最も献身的ファンの集まりなのだから。

(オフィシャル・サイト上のプレス・キットを監督の了承を得て抜粋翻訳)

アメリカン・プロレスが日本の怪獣と出会ったんだ」から話が始まり、中盤は延々アメリカ人オタクや日本文化研究者のインタビュー(「僕はOtakuであることを誇りに思っているよ!」、「Otakuっていうのはつまり、"nerd"や"geek"と呼ばれる人たちだね」)。最後にファン・コミュニティの紹介がなされる。

森川嘉一郎は「趣味の構造」という言葉で(昨今の)オタクの関心領域がPCを中心に構成されていることを示しましたが、そうした意味では「オタク」が英語で"nerd"に相当するという見方は正しいのかも。
更にこの"nerd"と"geek"という言葉に関して。両者共に「オタク」を意味しながら区別されているのは、前者が特定分野にアディクトしながら何かを生み出すのに対し、後者はただ消費し続けるのみだというパトリック・マシアスの分析が面白い。これは日本のオタク世代論にも適用されますね。1980年を分水嶺として、それ以前に生まれたオタクは「創作をしない者はオタクでない」という風潮があったのに対し、それ以後(丁度思春期に当たる年齢で「エヴァ」などを始めとするTV東京6時台のアニメ群に侵された人とも言える、いわゆる第三世代)は消費を中心として動いている。その差異が"nerd"と"geek"という語によって表されているようです。

オタク・イン・USA 愛と誤解のAnime輸入史

オタク・イン・USA 愛と誤解のAnime輸入史

もっとも、「必要は発明の母」だと考えられるので、いわゆる第三世代オタクがモノを生み出さないのは必然かと。オタク的コンテンツが充足されている状態では自分が何かを創り出す必要性は感じられないし。
話がチグハグになりますが、それでもやはり創作活動はオタクの真骨頂のように思います。前世代のように「無いから自分で創る」情熱を持ち合わせることが出来ず、氾濫するコンテンツの中で微視的差異を捉えることによってしか自己を定位出来ないというような形で、外から見たらオタクかも知れないけれど内的にはオタクにコンプレックスを感じているオタクになりきれないオタクが今はいるのかも。ってか、コレは半ば私のことですが。

無駄に話が長引きましたが、「OTAKU UNITE!」のようなDVDが出る辺り、あちらのオタクは社会に対して積極的ですね。そんなに(オタクの)外部にある社会でオタクの地位を向上させたいのでしょうか? 違和感を感じます。オタクは日陰者的心性を有し、社会に対しては(儀礼的)無関心を装うのが基本だと思っていますので。例えばコミケがルールやマナーといった「武装」を徹底するのは「武装」を身にまとうことによって内部の安住が約束されるからだと思うのですが、そこに外部社会への積極的アピールがどこまで含まれているのか? コミケのルールは換言すれば自治法な訳で、その目指しているところは、統治権力の介在しないいわゆるアジールだろうと思ってみたり。


作業が切羽詰まっている時は何かと違うことがしたくなるということで、久し振りの更新でした。