骨折り

3ヶ月前に剥離骨折して、もう経過観察も阿呆らしくなったので一旦通院を終えることになりました。
こちらが本日の画像。大学院生のあられもない写真を、医師の許可を得て撮影しました(元来肖像権は私に帰属すると思いますけれど、一応)。

バック・ライトの走査線で見づらいですが、骨盤右部(右腸骨)の骨が浮いたままです。お医者様から「くっつくと思ったんだけどねぇ。こんなケースは初めてだよ」とか言われました。
実寸で2cmほど剥離しており、素人目にはどう考えてもくっつくように思われません。診察してくれたのは50歳ぐらいのいかにもベテランそうなお医者様なのですが、骨ってそんなに復元力が高いものなのでしょうか?

とりたてて実生活で困ることはなくなったので、後は雨模様の日にシクシク痛む問題について質問を投げかけてみる。どうやら医学分野でも決まった見解はないらしく、気圧説や温度説、マイナス・イオン説まであるようです。……何故マイナス・イオン?
一通りの説で共通しているのは、それぞれの要因の変化によって痛みが生じるということ。そして、痛みは痛覚の閾値が各種「変化」によって下がるために生じていることのようです。ただ、閾値云々が問題ならば、痛みが生じていると言うよりは、痛みが感じられるようになっているだけですね。痛覚は不可欠な感覚だと思いますが、もうちょっと融通が利くと良いですね。特に歯痛時。

ともあれ、もう運動は通常通り行って構わないとの太鼓判です。それではと思い、早速巷で話題のビリーズ・ブートキャンプを見ているのですが、考えてみれば私のアパートにはエクササイズをするほどのスペースがありませんでした。運動よりもまず先に部屋の掃除をする必要がありそうです。部屋の掃除をしたところで、ドタバタ跳ねたら本棚が倒れてきそうで怖いですが……。

オタク講義のこと

1ヶ月振りの更新です。
これ以上放置すると書かなくなってしまうので更新。

今月は高速道路でタイヤがバーストしたり、学会発表したり、所属してない学会を覗いてみたり、オタクをテーマにした集中講義に潜ってみたりと、そこそこ充実した日々を送っておりました。

で、そのオタク講義の話。覚書混じりの感想など。
ネットでもちょっとだけ話題になったからか、300人超の出席者数でした。

2日連続講義のうち、初日はオタク論概説といったところ。
東浩紀森川嘉一郎、そしてちょっとだけ斎藤環をなぞる感じでした(一応、岡田・大塚にも言及あり)。
基本的には「読みゃわかる」ような部分のみ。

個人的には斎藤や大澤真幸のようなラカン派オタク論者の説明をして欲しかった。
彼らの提出する結論そのものからは何かしら腑に落ちるものを感じるのですが、その導出過程をちゃんと理解しないことには自分が使えないからなぁ。そもそも中間項すっ飛ばして結論に納得している時点で、私の理解に齟齬ありまくりな気がしますし。

さて、講義中、東のデータベース消費に用いられた例がこちら。

講堂は拍手喝采
うぅむ、私もいつぞやの学内発表で全く同じ事例を出したのに、こちらは嫌悪感しか受け取れなかったぞ。

この作品には主人公の妹が12人登場します。で、それぞれは「妹」という基本属性を備えており、そこへ更に付帯的な属性を与えることで特徴付けを施しています。そうした属性に合わせて、登場する妹達は主人公を様々に呼称する(e.g. 「お兄ちゃん」「兄君」「兄ぃ」etc...)わけですが、今回この講師の凄いところは、12人中11人の呼称を即座に黒板に書き綴ったこと。
数分後、会場から「お兄たま!」という声が上がり、見事12人コンプリート。またもや拍手がわき起こりました。素敵な講義です。
講師が「『兄者』って呼ぶ妹がいないから、これで『くのいち』キャラを追加出来るなって思ったんですよ」という発言をすると、会場からは同意の声。データベース消費の例としては適切ですが、客観視すれば駄目〜なオタク会議が催されているようにしか聞こえません。自分のことを棚に上げれば、それこそ深夜のファミレスで繰り広げられるような代物。オタクは看過できない文化現象だと信じてはいますが、扱い方を誤ると本当に目も当てられない与太話に(あるいはオタ話に)しかならないことが改めて実感されます。

2日目は各論で、「マンガ表現論」、「女装少年」、「現代美術×2」を講じる。
現代美術は全くの門外漢なので何とも言いませんが、前二者はいかにも体系立ってない話を聞かされた印象。講師に責任があると言うよりは、研究の大前提である先行研究への目配りがこれまでいかになされていなかったかを感じるところです。特に「マンガ表現論」。
マンガ研究の先行研究なんて、それこそ代表的なところ20冊程度+BSマンガ夜話で済みそうなものですから、その上で議論を積み重ねてもらいたいものです。サントリー学芸賞ではマンガ絡みの本が「芸術・文化」と「社会・風俗」の両部門から出ていますが、両者共に、狭い意味ではアカデミズムの著作ではありませんしねぇ。別に両著作を貶めるつもりはありませんよ。アフィリエイトだって出しちゃいます。

戦後まんがの表現空間―記号的身体の呪縛

戦後まんがの表現空間―記号的身体の呪縛

手塚治虫=ストーリーマンガの起源 (講談社選書メチエ)

手塚治虫=ストーリーマンガの起源 (講談社選書メチエ)

総じますと、主な参考文献の既読者にとっては、概説ということもあり新しい知見を得ることは出来ない講義だと思いました。復習がてらニコニコと笑いながら聞く分には、あるいは単位稼ぎの学部生には良かったのではないでしょうか? 大学でオタク講義をすることは功罪両側面あるでしょうが、この内容では時期尚早という印象です。
さて、他人様の講義を批評する前に、自分の研究のブレイク・スルーを見つけなきゃいけませんね。現段階で放り投げるのはいかにも無責任ですし。

条件付け

《近況》
A.待望の「らき☆すた」OP発売ということで、一日中エンドレス・ループにしています。

B.学会が近いので、先述のCDが発売されてから一日中学会発表用資料や原稿とにらめっこしてます。

C.所属ゼミの皆さんはどっかの博物館に私を置いて出かけてしまいました。遊んでくれる人がいません。引き籠もりに拍車が掛かります。


というわけで、引き籠もって(C)、アニメの主題歌を延々掛けながら(A)、学会の準備をしています(B)。
日常生活下の割にはかなり理想化された実験状況です。

《結果》
指導教官のチェックを受け、あとは微調整を残すのみ。ある程度羽が伸ばせるはずです。
でも、「らき☆すた」主題歌を掛けたら「学会の準備をしなきゃ」と、気がはやるようになってしまいました。落ち着きません。

気分はスキナー箱の中でオペランド条件付けを受けたラット。

同じような理由で、「ドタバタ☆エンジェループ」を聴くと食あたりを起こして苦しんでいた時の気分が想起されます。「思い出の曲」と言えば聞こえは良いですが、良い思い出と結びついた曲が思い当たりません。あるいは、良い思い出が思い当たりません。

オタクよ、団結せよ!

齢25にして、初めてビデオDVDを購入しました。
ブランクDVDは既に数百枚という単位で購入しているのに不思議な話です。
で、買ったのがこちら。

Otaku Unite [DVD] [Import]

Otaku Unite [DVD] [Import]

日本語紹介文をこちらから転載。

「OTAKU UNITE!」は歴史ドキュメンタリーであり、ファン・コミュニティーの特徴分析であり、社会現象の研究でもある。外国文化を愛しその外国文化を日常生活の1部にしている人々、アメリカの人口の特筆すべき割合を占めるその人々の描写でもある。そして何よりもまずこの映画自体がアニメファン・コミュニティーへの賛辞の表明だ。日本アニメファンとは、アメリカのポップ・カルチャーの歴史において最も個性的で最も献身的ファンの集まりなのだから。

(オフィシャル・サイト上のプレス・キットを監督の了承を得て抜粋翻訳)

アメリカン・プロレスが日本の怪獣と出会ったんだ」から話が始まり、中盤は延々アメリカ人オタクや日本文化研究者のインタビュー(「僕はOtakuであることを誇りに思っているよ!」、「Otakuっていうのはつまり、"nerd"や"geek"と呼ばれる人たちだね」)。最後にファン・コミュニティの紹介がなされる。

森川嘉一郎は「趣味の構造」という言葉で(昨今の)オタクの関心領域がPCを中心に構成されていることを示しましたが、そうした意味では「オタク」が英語で"nerd"に相当するという見方は正しいのかも。
更にこの"nerd"と"geek"という言葉に関して。両者共に「オタク」を意味しながら区別されているのは、前者が特定分野にアディクトしながら何かを生み出すのに対し、後者はただ消費し続けるのみだというパトリック・マシアスの分析が面白い。これは日本のオタク世代論にも適用されますね。1980年を分水嶺として、それ以前に生まれたオタクは「創作をしない者はオタクでない」という風潮があったのに対し、それ以後(丁度思春期に当たる年齢で「エヴァ」などを始めとするTV東京6時台のアニメ群に侵された人とも言える、いわゆる第三世代)は消費を中心として動いている。その差異が"nerd"と"geek"という語によって表されているようです。

オタク・イン・USA 愛と誤解のAnime輸入史

オタク・イン・USA 愛と誤解のAnime輸入史

もっとも、「必要は発明の母」だと考えられるので、いわゆる第三世代オタクがモノを生み出さないのは必然かと。オタク的コンテンツが充足されている状態では自分が何かを創り出す必要性は感じられないし。
話がチグハグになりますが、それでもやはり創作活動はオタクの真骨頂のように思います。前世代のように「無いから自分で創る」情熱を持ち合わせることが出来ず、氾濫するコンテンツの中で微視的差異を捉えることによってしか自己を定位出来ないというような形で、外から見たらオタクかも知れないけれど内的にはオタクにコンプレックスを感じているオタクになりきれないオタクが今はいるのかも。ってか、コレは半ば私のことですが。

無駄に話が長引きましたが、「OTAKU UNITE!」のようなDVDが出る辺り、あちらのオタクは社会に対して積極的ですね。そんなに(オタクの)外部にある社会でオタクの地位を向上させたいのでしょうか? 違和感を感じます。オタクは日陰者的心性を有し、社会に対しては(儀礼的)無関心を装うのが基本だと思っていますので。例えばコミケがルールやマナーといった「武装」を徹底するのは「武装」を身にまとうことによって内部の安住が約束されるからだと思うのですが、そこに外部社会への積極的アピールがどこまで含まれているのか? コミケのルールは換言すれば自治法な訳で、その目指しているところは、統治権力の介在しないいわゆるアジールだろうと思ってみたり。


作業が切羽詰まっている時は何かと違うことがしたくなるということで、久し振りの更新でした。

その他

健康診断がありました。
内科検診は問診票を事前に書き込む形式なので、最近気になる症状欄に「⑬.その他(骨折)」と書き込んでみる。問診の際に医師から「骨折? 大変だねぇ。いつ頃治るの?」と聞かれました。医師から治癒する時期を聞かれたのは初めてです。


閑話休題
さよなら絶望先生」がアニメ化です。監督が新房昭之なので期待大。

さよなら絶望先生(8) (講談社コミックス)

さよなら絶望先生(8) (講談社コミックス)

17日に新刊が発売されていることを知らずに書店を行ったのですが、帯には第7集の「半信半疑」ネタが書かれていたので、「新刊かと思って手に取ったら紹介されているのが知っているネタだったからおそらく旧刊だろうと思って買わずに帰ったけど後々調べてみたらやっぱり新刊だった」という寂しい事態になってしまいました。特に絶望はしておりません。このアニメ化がブラフ企画で無いことを祈ります。


覚書。
先頃、ラオウの葬式である「ラオウ昇魂式」が執り行われました。
マンガやアニメキャラクタの葬儀は「あしたのジョー」の力石徹のものが有名ですが、まさかこれほど非現実的なキャラクタが葬送されるとは驚き。「北斗の拳」の時代設定は199X年以降、連載当時でなく2007年にラオウの葬式を執り行うのはあながちタイミングを逸していたとは言えないのかも知れません。「我が生涯に一片の悔い無し」と言ったのはある意味ごく最近だったのかも。まぁ、映画公開前のPRと考えるのが妥当でしょうが。
リンク先のラオウ像は結構常識的な大きさですね。公式なラオウの大きさはこれでいいのでしょうか?

独り分野旅行


所属分野の皆様に遅れること2日。日本のヴェニスこと水郷潮来へ行ってきました。
もう水田に水が張られ始めており、陽光の反射で輝いておりました。
分野旅行の名幹事を見ることが出来なかったのは残念ですが、そちらは夏の本番を楽しみにしたいと思います。

そろそろ再開

先月27日に都内某所で行われた研究会以降今週中頃まで、諸般の事情があって帰省しておりました。まぁ、骨折したので地元で入院してただけですけど。幾人かにはご迷惑をお掛けしました。この場でお詫びと御礼。直接会ったときに改めてご挨拶します。
それにしても入院中に期待していた積読崩しははかどらなかったし(病院では結構読書の邪魔が入る)、年度初めの大学行事終わってやんの……。年度初めの浮き足だった雰囲気って結構好きなのに残念。しかも入院期間と北関東の花見の時期が丸かぶり。今年度から別分野のゼミにもお邪魔しようと思っていたのだけれど、タイミングを逸したので予定変更。この時期に休むと色々弊害があります。
入院中はろくに研究資料もないし、ネット環境もないし、春の新番組チェックも出来ないしで愚痴愚痴言いながら過ごしてました。整形外科にかかっていたのに、眠れなくて目にクマを作ったり無駄に熱を出したりと体調が悪化したので、予定を切り上げて退院することに。やはりアパートの独り暮らしは気が楽です。寝付きも良ければ体調も良い。いつの間にやら起床・食事・就寝の時間が決められている暮らしに適応できなくなってしまいました。

さて、それはそれとして新年度です。そろそろ本腰を入れて(腰骨は折れてますが……)作業再開中。息抜きに放置していたblogの更新等々しています。もちろん作業と息抜きの比率は2:8ぐらい。自堕落な人間に休む口実を与えちゃいけませんね。